『好きなものは好き』がもたらす様々なこと
好きなものはとことん好き。そこにかける集中力半端ない。
その傾向は小学生の頃からあった。
中学生になりその傾向がカタチとなって現れ始め、自分の中だけに留めておけず周囲の目にも触れることになった。
田舎暮らしで多様性とかなかったし、
『オタク=気持ち悪い』というイメージ全盛期だったし、
何よりも人と違うことが気になるお年頃。
でもね、それでも。
好きなものは好き、それは譲れない。
誰も私の好きなものの存在を知らなかったとしても、無名だったとしてもマニアックだったとしても。
好きを大事にして何が悪いのか。好きなものに囲まれて何が悪いのか。
一体誰に迷惑をかけているというのか。
そんな私を周囲は「オタク」として見ていたのはわかっていたし、
私は私で『だって好きなんだもん』と言いながらも、ひとりぼっちにならないように社会に適合できるようにと、何とか振る舞っていた。
それは、居心地が悪いというよりも、罪悪感に似ていた。
今にして思えば、至極単純な理由だと思う。
人は、自分を大切にされたい生き物。
大切なものをけなされたからツラいのではなくて、
それを大切にしている自分をけなされたからツラいんだ。
好きなものを好きだと言うほど、周囲からは浮いていく。
ますます自己重要感が満たされなくて、それでも好きをやめられない自分が申し訳なくて。
好きを貫くってこんなにしんどいんだと、ずっと思ってた。
それは今も変わらないかもしれない。
だから。彼女の言葉が響いた。
『好きなものは好き。誰も知らなくても自分しかわからなくても、それを貫く自分であってほしい。貫く気持ちは自分の味方になる。』
この言葉自体は最近の彼女のものだけれど、昔から込められているメッセージは変わらない。
「好きな気持ちをあなたが大切にしなくてどうするの?」
と、ずっとずっと彼女に言われ続けている気がする。
自分の中に留めておくだけならば独り善がりのままでいられるけれど、人の目に触れた瞬間、必ずジャッジはされる。
それは良い悪いではなく。
社会(‥というと漠然とするけれど、家族でも学校でも会社でもコミュニティでも、自分以外の人間がいる世界)で生きるとは、多分そういうことだ。
その中で、果たしてどれだけ「自分」を大切にできるか?
要はそーゆーことなんだろうと、
だからきっと、好きを貫くのはそれ相当の覚悟がいるんだろうと、今は思う。