come and see YOUrself

大切なことは全部めぐさんが教えてくれた - 林原めぐみから学んだ「”自分”の人生を真剣に生きる」ための心と言葉の使い方(限りなくセルフコーチング術)-

バランスの悪い私が「自分軸」を保てるようになるまで - その零 -

小さな頃から、人の顔色をやたらと気にする子でした。

 

「こんなことを言ったら怒られるかな」

「今話しかけても大丈夫かな。気分害されないかな」

「この考えは気持ち悪がられるかな。受け入れてもらえないかな」

 

そんなことをイチイチ気にして、なかなか思ったことを言えない子でした。

 

・・・と思ってました。が。

最近よくよく振り返ってみて気づいたのは、決して昔からそうだったわけではなく、

むしろ昔は何も気にせずに自分の思ってることを表現してたんだけど、その結果、周囲に怒られたり気分害されたり気持ち悪がられたりして、いつの間にか『思ったことを言えない子』という記憶にすり替えてたんだなぁ、と。

 

おお、そう考えるとものすごく歪曲した捉え方してるな自分。。

「その結果」起こった事象が自分の中ではあまり宜しくない思い出になってたから、根底から記憶を変えてしまってたのかな。。

 

など、思うことはたくさんありつつ。

周囲の反応・評価が”自分”に与える影響というのは、とてつもなく大きいのだなぁと改めて思います。

 

自分の意見や考えを自由に言えないなんて、こんなに邪険にされるなんて、本当に生きづらいしアホらしい。

 

子供ながらにそんなことを思っていたような気がします。

実際邪険にされてたわけじゃないと思うんだけど、昔から繊細な人間ではあるので、少しでも相手からの拒否反応を受けたらそう捉えてしまったんだろうなと。

とはいえ、その後それなりに社会環境へは適応しているし、生きていくのが嫌にもなっていないし寧ろ満喫している方だと思うし、いわゆる「自分軸」というものを保ちながら人生を送っているので、「記憶の変換」くらいで済んでいるのはまだ軽傷だったのかな、と今となっては思います。

 

そうなんですよね、自分の内面と外部からの反応と両方のバランスを取りながら過ごすのって、本当に一筋縄ではいかないというか。

大人になってから思いますが、過度に自己に閉じこもってしまうか、外部からの目を気にして過ごすか、どちらかに偏ってしまいがちな傾向がある気がして。

 

で、私は人一倍繊細だったはずなのにバランス悪い人間なはずなのに、どうしてバランスを保つことができるんだろうと考えてみたのですが、思春期の頃からめぐさんの言葉たちにずっとずっと触れてるから、なんですよね。

 

「誰にも理解してもらえなくても、自分の好きを大事にしてほしい」とか、

「目の前のことにとにかく真っ直ぐ真剣にぶつかっていく。そうすると後から見えるものがある」とか、

親よりも先生よりも周囲の大人たちの誰よりも、彼女の言葉は私の胸にストレートに刺さっていたんだと思います。

 

私はずっと彼女の言葉に守られていたんだなと思うし、もし彼女がいなかったら、自己が崩壊というか死んでいただろうなと、そこまで思うくらい拠り所にして日々を過ごしてました。

それが『依存』にならなかったのが本当に不思議だけれど、それはまた別のお話として書こうかなぁと思います。

何のために「自分と向き合う」のか?目的意識って大事だなと切に思う

心と体は繋がっている。

だから、「なんかちょっと休みたい」とか「限界かも」とか「何もしたくない」とか「死ぬほど疲れてる」とか‥etc、

その時の状態を、心と体とどちらからでもメッセージを受け取ることができる。

 

大事なのは、心にも体にも、きちんと目を向けてあげること。

毎日が無理なら1週間に1度でもいいから、”自分”と向き合ってあげること。

 

‥な~んてこんな風に書くと、「ではどうしたら?」みたいな話に必ずなって、やれ瞑想だとかマインドフルネスだとか、方法論にどんどん寄っていって、

「あれ?この方法じゃないといけないんでしたっけ?」「で、結局何なんでしたっけ?」な状況に陥りがちなんじゃないかと思います。

 

その方法が合ってる人は良いけれど。本筋違えてたらあんまり意味ない。

あ、方法を否定しているわけではないです念のため。きちんと実践すればとても効果のあるものだと思っているし私も似たようなことやってるし。

 

ただ。やみくもに方法論へ行く前に。

今の自分の状態を知ってどうしようとしてますか?と。目的意識をほんの少しでも持っていますか?と。

それがないとただの興味本位になっちゃって、決して続かないし、ましてや有用性は感じられないはずで。

そんなの勿体ないじゃんって思うから、それするくらいなら目的考えようよって。

 

だって、”自分”に向き合うって、別にそんな難しいことじゃなくて。

 

例えば心だったら、

その時素直に思っていること感じていることをそのまま認識してあげるだけ。

「こんな風に思う自分ってダメだな」とか「もっと明るく考えなきゃ」とか評価するんじゃなくって、いや、評価してる自分ですらもそのまま認識してあげる。

自分の心の中がどんな状態になっているか?を観察してあげる。

 

例えば体だったら、

「喉が痛いな」とか「足がだる重」とか「ふくらはぎ張ってる」とか、自分の体の状態に気づいてあげる。

いつもより少しだけ丁寧に、自分の体の状態を探ってあげる。

 

そんなんで良いんだと思うんです。もっと詳しく知りたい場合に専門家に頼れば良いわけで。

 

だからそれよりも、何のために自分と向き合うんだっけ?を考える方がよっぽど大切。

そしてその答えはきっと、本来は自分の中にしかないはずで。

それを、誰かに教えてもらおうとか気づかせてもらおうとか、答えを外に求めようとするから余計にややこしくなってしまう。

 

変なスパイラルだよなぁ‥と、ハタから見てるとつい思いたくなってしまいます。

自分で見つけることできるはずなのに。それをしようとしないのは本人の意識の問題なのに。

 

「どうしたらそんな風に自分と向き合えますか?」って聞かれるたびに、自分の中で違和感がムクムクと湧き上がるのは、多分そんな憤り。

道中どうあれ最後は自分なんだって、まず腹決めしないとね。自戒の念も込めて。

「最後は自分が決断している」から「責任は自分にある」

人のせいにする自分がキライです。

 

こんな風に言うと綺麗事に聞こえるかもしれないけど、本当にキライなんです。

 

"人のせいにする人がキライ”と言ってるわけではなく。

”人のせいにする自分がキライ”と言ってます。誤解のなきよう。

 

どうやら私はこの↑傾向が強いらしい、と知ったのは、ストレングスファインダーを受けてから。つまりはここ数年の話。

※ちなみにこの資質を「自己確信」と言います。

 

そこそこ長らく生きていますが、誰しもがそうなんだと思ってた。いや、信じてた。

最後は自分の責任だし、自分が決めるし、誰のせいにでもできない。

 

そりゃ、どうにも逃れられないこともあるし太刀打ちできないこともある。

『自分だけが100%悪い』なんて局面は少ないんだろうし、事実いろんな要素や側面はあるのだと思う。もちろん、それはそう思う。

 

そうではなくて。

『自分だけが100%悪い』わけではないのだとしたら、『相手だけが100%悪い』わけでもないということ。

親に怒られたとか反対されたとか、友達にやめとけと言われたとか、いろいろあると思うんだけど、それでも。最終的に決めているのは自分であって、自分のことは自分以外に決められない。

だから必ずどこかで、自分の責任というものは発生してる。

 

例えば。

好きな人ができた。でもその人には彼女がいた。だから諦めた。

上司に『これやっといて』と頼まれた。やってもやっても終わらなくて、気づいたら終電逃してた。

『声優になりたい』と言ったら親にめちゃくちゃ反対された。だから大人しく大学に行って就職した。

 

理由がどうであれ、自分で選択したことを含んでいることには間違いなくて。

「親に言われたから」と言ったところで、「親に言われて決めた自分」が確実に存在している。

いや、「だって結局は自分で決めたってことでしょ?」と説教するわけではなく、単に「そう決めた自分の存在を認めるか否か」ということなんだ。

 

この理屈自体に何の違和感も抱いていなかった。

そしたら意外とそうでないこともあるらしいと知った。

 

「自己確信」という資質は、間違いなくめぐさんに育んでもらったもの。

 この資質を持っている人は、自分の心の中に羅針盤があるため、

 

・ブレない

・確固たるものが自分の中にある

・自分の直感を信じて進む

 

のような特徴を持ってる。かつ、言葉に影響力がある。言葉が伝播する。

初めて聞いたとき「あ、これはめぐさんだ」と確信した。

 

少なからず私も、「千晶が言うとホントっぽい」「千晶にそう言われるとそうなのかもって気がしてきた」と言ってもらえることがある。

それは紛れもなく、”根拠のない自信”改め”羅針盤がある自信”から出た発言、なんだと思う。

 

『何かが降ってきたら全力で立ち向かう。自分の中にいる静かな人が「やる」というのならやる』

 

心の中に羅針盤があるって、まさにこんな感じです。

そしてそんな羅針盤を持っている自分は、結構好きだったりします。

『あなたのようになりたい』という憧れと現実の狭間

『あなたのようになりたい』

 

と言ったら、怒られた。

・・・いや、怒られたはデフォルメしすぎか。正確には、「拒絶された」が一番近いかもしれない。

 

彼女に憧れる人は山ほどいる。

それだけのことを成し遂げている人。それは揺るぎようのない事実。

けれど、『めぐさんのようになりたいんです』という発言に対しては、昔から一貫してこう断言する。

 

「あなたはあなたでしかない。だから、私になろうなんて思わなくていい」

 

初めて聞いたときは衝撃だった。だって私だって例に漏れず、彼女のようになりたいと心底思っているひとりだったから。

 

どうすればなれるのだろうか?どうすれば近づけるのだろうか?どうすれば・・・。

 

彼女のようになりたくて、ただひたすらに呪文のように唱えてた。

そんな思いを瞬殺されたような気分だった。

 

でも、 少し経ってから、『何だかよくわからないけど、それは違うってことなんだな』と、思いの外あっさりと納得したことを覚えてる。

それぐらい彼女の言葉には、説得力というか力強さというか、有無を言わせない魂が乗ってるんだと思う。

 

『今がツラいから、めぐさんのようになりたい』

 

そんな匂いを彼女はすぐに嗅ぎ分けてしまう。

そして決して、現実逃避を許さない。

 

誰かに頼ってもいい。迷惑かけてもいい。

弱音吐いても愚痴ってもいい。投げ出したっていい。

けれど。最後は自分の足で立てと、ちゃんと”ここ”に戻って来いと、逃れることを許さない。

 

・・・許してくれないんだよなぁ、ホントに。

だから私は。現実逃避グセが出ると無意識に、彼女の声が聴きたくなる。言葉に触れたくなる。

そんなことをずっとずっと、繰り返しているように思う。

 

 

「彼女のようになりたい」は、

突き詰めると、他人になろうとしているということ。

 

「他人になんてなろうとしないで。自分を見失わないで。自分らしさを大切にして」

 

他人になろうとする行為は、一歩間違えると他人の価値観でしか生きられなくなる。それはつまり、自分らしさの放棄。

彼女のメッセージの真意に気づくまでにだいぶ時間はかかったけれど、

いつ何時もブレることなく、「私にならなくていい」と言い続ける彼女をカッコいいと思った。

そんなことを言えるような大人になりたいと、心から思った。

 

彼女に抱いていた憧憬の念は、次第に尊敬の念に変わったんだと思う。

大学入学のため上京する頃には、

 

『いつか彼女に会ったとき、恥じない自分でありたい』

 

これが私の志になった。

『好きなものは好き』がもたらす様々なこと

好きなものはとことん好き。そこにかける集中力半端ない。

 

その傾向は小学生の頃からあった。

中学生になりその傾向がカタチとなって現れ始め、自分の中だけに留めておけず周囲の目にも触れることになった。

 

田舎暮らしで多様性とかなかったし、

『オタク=気持ち悪い』というイメージ全盛期だったし、

何よりも人と違うことが気になるお年頃。

 

でもね、それでも。

好きなものは好き、それは譲れない。

誰も私の好きなものの存在を知らなかったとしても、無名だったとしてもマニアックだったとしても。

好きを大事にして何が悪いのか。好きなものに囲まれて何が悪いのか。

 一体誰に迷惑をかけているというのか。

 

そんな私を周囲は「オタク」として見ていたのはわかっていたし、

私は私で『だって好きなんだもん』と言いながらも、ひとりぼっちにならないように社会に適合できるようにと、何とか振る舞っていた。

それは、居心地が悪いというよりも、罪悪感に似ていた。

 

今にして思えば、至極単純な理由だと思う。

 

人は、自分を大切にされたい生き物。

大切なものをけなされたからツラいのではなくて、

それを大切にしている自分をけなされたからツラいんだ。

 

好きなものを好きだと言うほど、周囲からは浮いていく。

ますます自己重要感が満たされなくて、それでも好きをやめられない自分が申し訳なくて。

 

好きを貫くってこんなにしんどいんだと、ずっと思ってた。

それは今も変わらないかもしれない。

 

だから。彼女の言葉が響いた。

 

『好きなものは好き。誰も知らなくても自分しかわからなくても、それを貫く自分であってほしい。貫く気持ちは自分の味方になる。』

 

この言葉自体は最近の彼女のものだけれど、昔から込められているメッセージは変わらない。

「好きな気持ちをあなたが大切にしなくてどうするの?」

と、ずっとずっと彼女に言われ続けている気がする。

 

自分の中に留めておくだけならば独り善がりのままでいられるけれど、人の目に触れた瞬間、必ずジャッジはされる。

それは良い悪いではなく。

社会(‥というと漠然とするけれど、家族でも学校でも会社でもコミュニティでも、自分以外の人間がいる世界)で生きるとは、多分そういうことだ。

 

その中で、果たしてどれだけ「自分」を大切にできるか?

 

要はそーゆーことなんだろうと、

だからきっと、好きを貫くのはそれ相当の覚悟がいるんだろうと、今は思う。

1st LIVE -あなたに会いにきて- で出会えたたくさんの「私」

2017年6月11日。中野サンプラザ

あのとき私は、何度「私」に会えたんだろうか。

 

 

胸が震える。

涙が零れる。

どうしてこんなにも、心いっぱいになるのかわからない。

 

初めて彼女に会いにきたわけでもなければ、

初めて彼女の生歌を聞くわけでもない。

なんたってかれこれ四半世紀以上、彼女を追い続けている。だから免疫はある、それなりに。

 

にもかかわらず。この現象は一体何なんだろう。

 

たどり着いた答えはひとつ。それは「私」に会ったからなんだ。

 

留まることなく溢れ出す思いは、すべて「私」への思い。

嬉しかったことも、哀しかったことも、

未熟だったことも、過信していたことも、

自分を裏切っていたことも、誰かを傷つけていたことも、

そのすべてが「私」だと、偽りない自分自身なんだと、彼女からのメッセージ。

 

いつもそうだ。

彼女からのメッセージは、本当に真っ直ぐ心に突き刺さる。

ときに心地よく、ときに厳しく、いつも真剣に。

正義感のようなものではなくて、多分、真理なのだと思う。

 

その真理にずっと触れ続けてきた、ずっと拠り所になっていた、自分を形成してくれた。

そんな「私」に、許される限りの時間、私は会い続けていたのだと思う。

 

 

ライブ終わりの帰り道は、本当に抜け殻のようで。

思考が破壊されているのとも違うし、何も考えられないのとも違うし、興奮しているのとも違う。

初めて味わう感覚を持て余して、ただただ、歩くのに必死だったように思う。

 

それから2ヶ月。

あのときのことをようやく消化ができた気がする。

そして気づいたことは、

 

彼女から受け取ったもの、受け取り続けていたもの。

それを、私ができるカタチで継いでいく。

 

おこがましくも、そんな風に思っている「私」だった。